ミャンマーとカレン族とランボーの話【続編】
「初めて実感した死への恐怖」
小銃を持った兵士との写真をFacebookに載せてたりすると多くの友人知人から心配の声が寄せられる。だけど私からは「実は全く安全なんですよ」と伝えてきたコートレイでの出来事。しかし今回だけは本当に身の危険を感じることになった。
ある日の夕方、コートレイにある製材所で始まった宴会は夜の10時を過ぎても終わる気配もなく、結局は二次会に繰り出す事になってしまった。本来なら夕方6時までにはタイに戻らなければならない暗黙のルールがここにはある。そんな時、カレン人の工場マネジャーが私にこう告げた。
「今夜は帰ることが出来ないからここに泊れよ」
一瞬ギョッとしたが、私の困惑顔をみて皆が大笑いしたのでジョークであると気づき安堵した。しかしこれは後に起こる恐怖体験の序章に過ぎなかった。
20人を超える人数に膨れ上がった参加者は、それぞれ数台の日本製中古車に乗り込み二次会の会場を目指した。私は誰と一緒の車に乗り込んだのかすらわからなかった。車窓から外を眺めていた時、途中のチェックポイントで兵士と目があった瞬間はさすがにドキッとした。なぜならこんな時間ここに日本人がここに居てはいけないからだ。
10数分で到着した二次会の会場はこの国のこの場所には似つかわしくないナイトクラブだった。これが軍事政権から民主化への変化の恩恵なのかと、少し違和感を感じた。そこから彼らカレン民族が持つ底抜けの明るさを知る事になる。昼間は口数も少なく、シャイでおとなしい民族だと思っていたが、酒が入ると一気にその姿は豹変した。大音量のクラブミュージックが流れる会場で、水タバコを嗜み、大騒ぎし踊り狂うのだ。最後は大カラオケ大会に。まさか大勢のビルマ人や少数民族の前で『未来予想図II』を熱唱するハメになるとは夢にも思わなかった(苦笑)
まるで終わる気配ない大宴会だったが、主賓の私が完全にノックダウン。懇願して無理やりお開きにしてもらったのが深夜の0時30分頃(日本時間午前3時)それからが本当の恐怖の始まりだった。警察官や軍幹部などのVIP達とハグして、再会を約束して別れた私は国境の川を目指した。まさに漆黒の闇に包まれたその様子は、昼間とはまったく違う表情を見せる。泥酔状態でフラつく私は、危うく川に転落しそうになった。それでも何とか両脇を抱えられながら、いつもの小舟に乗り込んだ。同乗した仲間のひとりが言った。
「声を出すな!静かに!」
と小声で耳打ちをした。日中とは違い、船外機のエンジンを使わず、ふたり掛かりで竹の棒を使って静かに小舟を進めた。この時、生まれて初めてと言って良いほど「死への恐怖」を感じたのだ。それは国境を警備する軍のスナイパーにいつ狙撃されてもおかしくないという、得も言われぬ恐怖を感じるのだ。この時、脳裏に浮かんだのが「ランボー最後の戦場」でランボーがキリスト教の宣教師達を舟でカレン族の村へ送る途中のシーン。真夜中の航行中に宴会をしている海賊と遭遇する。そこでランボーは船外機のエンジンを停め、小声で彼らに注意する「声を出すな!気づかれたら皆殺しにされるぞ」漆黒の闇の中、音を立てずに舟で対岸を目指す状況はまさに…なのである。
国境を越えるのにどのくらいの時間がかかったのだろう…私にはとてつもなく長く感じたのは間違いない。やっとタイ側に到着し、固く閉ざされた国境のゲートを開けて貰った時は既に午前3時(現地時間)を回っていた。疲労困ぱいの中、タイに戻れた安心感で一気に酔いが回り、激しい頭痛と嘔吐感に襲われた。やっとホテルに着いて真っ先に頭痛薬と正露丸を飲んだ。それにしても「正露丸」という薬は昔ながらよく効く薬だと感心する。
彼らとの信頼関係を築くことはもちろん重要ではある。しかし、やはり自分の身は自分で守るしかないのだ。帰り際に「俺は警察官だ!何か困ったことがあればお前を助ける」そう言った当事者が国境の川まで来てくれたわけではない。現実とはそういうものだと痛感した日であった。
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