MUKU

ミャンマーとカレン族とランボーの話【後編】

「オマエたち日本人が我々民族にしたことを分かっているのか!」

それがカレン民族解放同盟(KNU)の指導者が私に言い放った最初の言葉だった。2013年2月、私は生まれて初めてミャンマーの地を訪れた。いや、正確にはそこはミャンマーではなく、また、国境を接する隣国タイでもなく、ミャンマーの少数民族「カレン族」が国と呼ぶ「コートレイ」(Kawtholei)であった。Kawtholeiとは花咲く大地または平和の土地という意味らしい。そこにたどり着くまで私は目的地はミャンマーだと信じ切っていた。

ヤンゴンのダウンタウン。

2011年12月、私はそれまで勤めた会社を辞め、赴任地であったベトナムのホーチミンでビジネスを始める決断をした。きっかけは前年の東日本大震災にあったと言っても言い過ぎではないだろう。当時勤めていた会社は日本の建設業だった。震災復興特需を御旗に、“ひと、もの、かね”経営資源を東北に集中させるという経営側の判断に異論の余地はなかった。ただ自分自身にとって、会社の未来を切り開くつもりで単身乗り込んだベトナムの地を離れることもできなかった。子供の頃、“今日より明日、今年より来年、将来はもっと良くなる!”、まるで根拠もない希望を持ち、明るい未来を信じていた自分がいた。そんな日本の高度経済成長時代の夢を、多くの若者達で活気みなぎるベトナムの地で思い出し、また魅了されていた。撤退はしないが事業活動は当面凍結するという状況下で、目の前を早足で通り過ぎてしまうビジネスチャンスを、ただ指をくわえてみていることなど到底できなかった。

そうして現在の事業に繋がる木製建材の貿易事業を始める決断をした。当時の記憶として、私が持つミャンマーという国のイメージは、アウンサンスーチーが度重なる自宅軟禁から解放され、軍事政権から民主化へ変貌し、これまた“なんとなく”ではあるが、これから良くなるのだろうなというイメージを漠然と持っていた。事実そんな程度の認識でしかなかった。独立開業して半年を過ぎた頃、その後の人生を変える出会いがあった。某上場企業の社長で友人のYからの誘いで、ホーチミン市内の高級ベトナム料理レストランで会食することになった。そこに同席されたのが、その後の私の運命を変えるきっかけとなったA氏との出会いであった。A氏は当時友人の会社の株主であり、個人投資家だと紹介を受けた。私は自己紹介の中で、独立したばかりで木製建材を買付け日本に輸出する事業をしていると話した。その時はそれ以外、たわいもない会話だけだった。

A氏から届いた現地工場の写真。

その後の私の事業はというと順風満帆とは行かず、ベトナムで生産される建材の品質の悪さと、取引先の不誠実さに辟易としていた。一旦ベトナムに見切りをつけ、数少ない海外人脈を頼りに東南アジアの国々を巡り、日本の要求に耐えられる建材工場を探し回っていた。その甲斐あってインドネシアで日本向けに建材を輸出しているという工場に巡り会うことができた。そうして事業継続の目処がたった2013年1月、沖縄の取引先でのミーティングを終え、空港へ向かうモノレール内で突然A氏からの電話が鳴った。話の内容はA氏の投資先のひとつであるミャンマーでの話、「チークというとても貴重な木材があり、それを取り扱えることになった。その木材でビジネスができないだろうか」そんな内容だったと記憶している。A氏と初めて会ったとき、自己紹介で木製建材を扱っていると言ったことがイメージに残っていたのだろう。私は彼に「確かに木製品を扱っていますが木材に詳しいわけではないので、それなら木材業界の方が良いと思いますよ」そのように答えた。

正直な話、チークという木材の事も良く知らなかった。A氏は「そうですか…でもそれは木で作られているのですよね、家具も造れるみたいなので一度現地の写真だけでも見て貰えませんか」と。後にA氏から現地の製材所とも加工場とも呼べないような、森の中にある屋根だけ掛かった小屋の写真がメールで送られてきた。ベトナムで痛い目にあっていたこともあり、多少は製造現場を見る目はあった。一目見てこれはどうしようもできないなと感じた。私はメールで「とても日本向けの製品を造れるレベルにないと思う」とA氏に返信した。それでもA氏は一度現地に同行して欲しいと言う。正直な話、日本に輸出する工場の目処も立ったし、今後ミャンマーが良くなるであろうイメージも持っていたので「タダでミャンマーに行けるならラッキー、現地を見て無理なら断ればいいさ」その時はその程度の気持ちで同行を承諾した。ミャンマーという国について基礎知識もまったく持たないまま、私は待ち合わせ場所となるバンコクのドンムアン空港に向かった。

バンコクとメーソートを繋ぐ唯一の航空会社ノックエア。

2013年2月、ミャンマーが65年続いた内戦に終止符を打った歴史的停戦合意が成されてから1年後のことである。ミャンマーと言えば貿易の要所であり、ミャンマー最大の都市ヤンゴンくらいしか知らない。確かに木材目的なら森林に行くのだろうが、それでもヤンゴンから向かうものと勝手に思い込んでいた。しかしそれはまったくの私の思い込みに過ぎなかった。空港で私たちを出迎えたのは現地の水先案内人であるカレン族の女性Mさんとタイの女性弁護士Tさんのふたり。カレン族のMさんは日本語、英語、タイ語、ビルマ語、もちろんカレン語も話すマルチリンガル、タイ人の弁護士Tさんはタイ訛りの強い英語を話した。お恥ずかしい話、私はまったく英語が出来なかった。なのでA氏が私の通訳係でもあった。したがってこれから書く話は記憶も曖昧ながら、私自身の語学力の問題もあり、かなりあやふやな部分があることをお断りしておく。私たちが乗り込んだ飛行機は驚くほど古く、また小さく、飛行機嫌いならそのまま回れ右をして帰りたくなるほど、不安感を抱かせるには十分な国籍不明のプロペラ機。乗り込むと謎の3列シート、それも通路を挟んで1席と2席、最後部はなんとベンチシートだった。誰がどう考えてもバランスが悪いことは素人の私にでも分かる。余談だが一度最後部のベンチシートに座ったことがある。やはり飛行中はずっと“斜めに傾いて”飛んでいた。早朝ドンムアン空港を飛び立ったプロペラ機は2時間後、ミャンマーとの国境の町、メーソートにある小さな空港に着陸した。

着陸というよりは着艦かと思うほど強い衝撃に驚いた。その後ターミナルで、女弁護士Tさんが自分の首を押さえながら航空会社のスタッフに激しく抗議しているのも見てさすがと感じた(苦笑)トラックの荷台を改造したタクシーの載り、近くのロードサイドのレストラン(と言っても屋根があるだけ)でタイ料理の昼食をとっていた。食事もまだ終わらない頃、砂煙を上げて一台のワゴン車がレストランの前に斜めに乗りつけた。ワゴン車から降りてきた数人の男達は全員ティアドロップ型の黒サングラスを掛け、表情が読み取れないその異様な姿に驚いた。私たちは4人は男達に促されワゴン車に乗り込んだ。この時脳裏に浮かんだのは“もしかしてこれは拉致では?”という恐怖だった。走り出したワゴン車の車窓から見える景色から街並みが消え、舗装道路から外れ、道無き道を進むとやがていつかどこかで見たような川(モエイ川)にたどり着いた。ここまでの話は他の三人からした大袈裟だろうと言われること間違いナシ。だけど初めて行く国で言葉が通じない不安とはこういうものなのだ。

タイとミャンマーの国境を流れるモエイ川。

それがタイとミャンマーの国境であろうことは容易に想像できた。ワゴン車から降ろされた我々は川岸にある粗末な木製の小舟に乗り換えるように指示される。この時目の当たりにした景色は映画ランボーで見た風景そのものだった。自分の置かれている状況があまりにも非日常的過ぎて、現実なのか夢なのか分からないような不思議な感覚だった。普通の日本人の感覚として、国から国へ移動するにはパスポートや場合によってはVISAが要るのは常識。(事実ミャンマー入国にはVISAが必要)それなのに小舟に載って国境を越えようとしている状況は自分の理解を超えていた。対岸に近づくと遠くに十数人ほどの黒い服を着た人影が見えてきた。それが小銃を持った兵士だと気づくのにそう時間は掛からなかった。正直、“俺は日本に生きて帰れるのか?”という不安感でいっぱいになっていた。上陸後、兵士に囲まれて軍の施設らしきところへ連れて行かれた。そこで初めてテンガロンハットを被った黒サングラスの男がKNUの外相担当、KOKOだと知ることになる。その後、A氏と私がテーブルに付き、向かい側には外務大臣と軍の司令官が座り、周囲を大勢の小銃を持った兵士が囲んでいた。ここで言う軍とはKNUの軍隊、カレン民族解放軍(KNLA)を指す。司令官は通称タイガーと呼ばれていた。まさにその名は風貌やイラついた仕草は荒くれ者のイメージをよく現わしていた。

コートレイを守るKNLAの兵士達。

水先案内人であるMさんからの紹介で始まった会談の冒頭、KOKOから発せられた言葉が「オマエたち日本人が我々民族にしたことを分かっているのか!」である。少なからず友好的な雰囲気で行われるものと僅かな期待を持っていたので正直ビビった。ところで日本は何しちゃったんだろう?とにかくヤバい状況なのは間違い無い、そう感じていた。この先の話はA氏の通訳を元に恐怖に震えたパニック状態での記憶なので、少なからず誤認があるかも知れない。当時、東南アジア通を自負していた私は、東南アジアの人々がとても親日だと感じていた。だからミャンマーでも同じだと決めつけていた。それがいきなりの日本人に対する怒りに驚かないわけがなかった。KOKOはもちろんのこと、KNUの指導者層にはキリスト教徒が多く、また彼らは流暢に英語を話す。KOKOは静かに英語で話し始めた。「なぜ日本はビルマ(ミャンマー)の軍事政権を支持して資金援助をするのか?」「その資金でビルマ軍事政権が武器を調達し、我々民族を虐殺し、資源を奪っているのを知っているのか?」“えっ、マジ?”というのが偽らざるその時の心境。だからと言って前編でも書いたが、どちらが善玉でどちらが悪玉というような簡単な話ではない。ただ情けないぐらいに当時はミャンマーの事も、もちろん民族問題についても、何の予備知識も持ち合わせていなかった。

当時のが見つからず、ネットで見つけた最近のタイガー。今の彼は大佐に出世したそうです。

正直、その時は日本人としてショックを受けた。KOKOは続けて「しかし我々はビルマ軍事政権と停戦合意をした。それは我々が求める高度な自治権確立のためだ。」「その合意はカレン民族と外国との貿易を認めること、貿易で得た利益に対してビルマ軍事政権に税金を納めること、その代わりにビルマ政府はカレン民族に対し、道路、電気、水道など公共インフラを整備し、学校、病院を造る」という内容だ。「しかし、我々は約束を守り納税をしている。しかしビルマ軍事政権は何一つ約束を守らない。」とここまで話したところで隣りに座っているタイガーがイラつきはじめた。彼は英語が出来ないがカレン族のMさんが内容をカレン語で通訳していた。これこそ私の抱くイメージなので話半分で聞いて頂きたいが、「あの野郎ども、約束守らねぇならまた一発やってやろうか!」みたいなカンジで怒り狂っていた。彼は生粋の兵士なので戦うことでしか問題解決ができないと考えているのかも知れない。隣のKOKOはまあまあ抑えろという仕草をし、カレン族のMさんは母親のように厳しく叱っていた。少なくても私にはそう見えた。叱られたタイガーが大人しくなったのを見て彼女のKNUでの立ち位置を知ったように思う。

KNLAの兵士に見送られコートレイから舟でタイに戻るところ。

タイガーが落ち着いたところでKOKOはこう続けた。「我々はビルマ軍事政権に頼らず、自らの力で国を豊かにする。だからお前達にチーク材を売って資金を稼ぐ。」「しかし、我々の資源だけを持って行くだけというのは止めて欲しい」「このチークで物を造るならこの地で造って欲しい。つまり雇用を創って欲しいのだ」と。そう言うとKOKOはおもむろに周囲を囲む兵士達を指さした。その時初めてまじまじと兵士の顔を見た。“なんだみんな子供じゃないか!”まるで日本人の中学生ぐらいにしか見えない少年兵の姿に驚いた。KOKOは「和平条約を結ぶということは反面、彼らの仕事が無くなるということでもある。」と続けた。この言葉には衝撃を受けた。魂を揺さぶられるとは正にこういうことだ。世の中の役に立つことが事業だ!みたいな、当たり前な動機で起業した自分がちっぽけに感じた。この時、“この事業は絶対にやなければいけない”と心からそう思った。今まで半世紀生きてきて、自分が事業を通じて、「血が流れない平和な国づくり」に貢献できるかもしれないなんて思いもしなかった。齢50にして起業した私が、残りの人生をミャンマーの和平に少しでも役立てるなら、これほどやり甲斐のある仕事はないと思った。私はKOKOにこう告げた。「ぜひ取引をさせて欲しい。しかしここには電気もガスも水道も無くまともな道路すら無い。今直ぐにここに工場を建てるのは不可能だ。先ずはチークを売ってくれ。それを使って資金をつくり、その金をこの地に投資して工場を建て雇用を創る」KOKOは分かったと大きく頷き「必ず戻って来てくれよ。」と言って硬く私の手を握った。そして日が傾く頃、我々はコートレイを後にした。こうしてMUKUを創業し、ミャンマーチークに特化した家具・建材ブランドを誕生させた。これが今まで公には語ってこなかった「MUKU」誕生秘話だ。弊社の根幹理念は「ミャンマーのすべての民族に対し、兵士の武器を工具に持ち替えさせること」なのだ。

弊社は2013年の事業開始から3年を過ぎようとしている。これまでにいろんなことがあった。一番鮮烈に憶えているのが2013年10月起こったヤンゴン中心部にある高級ホテル、トレダーズホテル爆破事件(現・スーレー・シャングリラ)である。嫌な予感がしたというか、あの会談でのタイガーの苛立ちを思い出していた。それに二回目のチーク材輸出を控えていた大事な時期でもあったし、心配ですぐに現地に飛んだ。悪い予感は当たるもので、カレン族の国境貿易は6ヶ月間の停止処分となっていた。つまりペナルティなのだろう。(この時点では犯人は特定されていない。後に元・KNLAメンバーの単独犯、組織的関与は否定とう報道があったが真相は不明)この時はビジネスパートナーの機転でヤンゴン港からの輸出に変更し、事なきを得ることができた。このように東南アジアでのビジネスは“まさか”の連続なのだ。

くつろぐKNLAの兵士。

後にKOKOが本物の銃にビビっていた私に大笑いしながら「この銃はオマエを殺すためのものではない。オマエを守るための銃なんだ。」と言ったの憶えている。彼らは同胞を守るために戦っていたのであって侵略ためではないのだ。それからメーソートで私を拉致した(笑)短髪で黒サングラスの男はキリスト教の神父さんであった。時には反政府ゲリラと揶揄される彼らではあるが、実は心優しい人々なのだ。ちなみにKOKOは「映画ランボー/最後の戦場」に出てくるカレン反乱軍の一員で、道案内役ビエン(役名)のモデルだとカレン族のMさんに知らされた。それなら映画の中でカレンの兵士が英語を話しているのも頷ける。

https://www.amazon.co.jp/カレン民族解放軍のなかで-西山-孝純/dp/4795239738

ミャンマーと少数民族の問題やカレン族について調べてゆくうちに、かなりの数の日本人義勇兵がKNLAに参加していたことを知った。戦死した日本人兵士の墓もあるらしい。この件はKOKOやタイガーはもちろん、Mさんからも語られることはなかった。私と比較的年齢が近い西山孝純さんが書かれた「カレン民族解放軍の中で」を読んでみた。カレン族のために戦っていた彼の想いや葛藤、苦悶が伝わってきた。私は血を見るのも痛いのも嫌いだから戦士として戦うことは出来ない。しかし私なりのアプローチでミャンマーの民主化、カレン民族の和平に貢献できると信じている。出来る事なら著者の西山さんと直接話してみたかった。残念ながらマラリアが原因で1997年11月に32歳の若さでバンコクの病院で亡くなっていた。多くの日本人義勇兵が自衛隊出身者の中、西山さんはラオスでのボランティアから傭兵に転身したらしい。

まだまだ混沌としていた当時のミャンマーの国情を踏まえ、今まであえてこの話に触れずにいた。民主的な選挙が行われ、軍事政権から民主化へと大きく舵を切ったミャンマー。本来であれば血が流れることもなくなるはずである。しかし、つい先日起こったミャンマーの与党・国民民主連盟の顧問弁護士(イスラム教徒)がヤンゴンの空港で射殺されるなど、民族対立、宗教対立の構図は何も変わっていない。問題の根源が軍事政権こそが悪だという単純な話ではないという証拠。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が政権を取っても、軍事政権から軍事が外れただけで軍部をコントロールできないのか、はたまたコントロールしている結果がロヒンギャ問題だとしたら…考えただけでもゾッとする話である。

ずいぶん前からアウンサンスーチーはアメリカの傀儡だと言う人もいる。もし、イスラム教徒のロヒンギャ族に対する弾圧が「民族浄化」であり、どこかの国の思惑だとしたら…それはあまりにも恐ろしい。軍事政権時代はキリスト教徒のカレン民族に対する弾圧は「民族浄化」だと言われてきた。政権が変わったら、迫害する民族が変わっただけなんてことにならないことを祈る。私が初めてミャンマーを訪れた四年前、ミャンマーが軍政でタイが民政であり、今はミャンマーが民政でタイが軍政である。だからといってタイがかつてのミャンマーのようになったわけではない。軍事政権=悪ではないのだ。どこかの国の都合や思惑で作りあげられたヒーローとヒールによるイメージ戦略に惑わされてはいけない。

ランボーに「お前たちが行っても何も変わらない、帰れ」と言われないように…

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